翌日から、は日暮れ前には必ず帰途に着くことにした

       あの日の出来事についてカノンがに尋ねて来る事は無かったが、彼が何かに警戒しているのはにも自ずと伝わって来た
       あの男が誰なのか、そしてカノンとあの男は一体どんな関係にあるのか、気に掛からないと言えばそれは嘘になるが、
       さりとて今のにはそれを知る術は何一つ無い

       そんな事に関わっている時間があったら、任務に心血を注ぐ事にしよう

       は以前にも増して仕事に打ち込み始めた
       夕暮れ前に本部に戻ってくるの表情は、まさに疲労困憊の極みだった
       自分の好きでやっているのだからとは平然とした顔をしていたが、日を追ってその疲労の度合いが濃くなるのを
       誰よりも近くにいるカノンが気付かない筈は無かった

       一体、何をそこまで自分の身を削ってまで働きたいのだろうか

       最初は半ば呆れ顔で傍観を決め込んでいたカノンも、徐々に不安を感じ始めていた


       「おい、。お前、夜はきちんと寝ているのか。」


       ある日の夜、夕食の食卓でカノンは耐えかねてに尋ねた
       カノンが自分に対して何かを尋ねてくる事は今までまず無かったと言って良いので、はカノンの言葉に自分の耳を疑った


       「え?…ええ。勿論。」

       「…本当だな?」


       慌てて答えたの目を、カノンは真っ直ぐに見据えた
       カノンの瞳は、一片の偽りすらも見逃す事を許さないと無言の内に語っていた
       の退路を総て断った上で、正面から追い詰める
       普通の日本人として視線を合わせて会話する習慣を持たないは、このカノンの仕種が少々苦手だった

       …本当は、あまり眠っていない
       ブルーグラード<ここ>の人達の身体の事、来るべき夏の事
       そして何よりこの国の将来の事を考えれば考える程、様々な不安や懸念がの脳内を去来し、その長い首を擡(もた)げていた
       昼間は昼間で、決められた短い時間の内にできるだけの事はしておきたい
       畢竟、心底休まる時間は皆無に等しかった
       …しかし、それをカノンに見抜かれるのも内心忸怩たるものがある

       その考え自体が、この家におけるの真の休息を阻んでいるのであるが、本人はまだその点にまでは気付いていない
       そしてそのことは、彼女が疲れ切って判断力が衰えている事実を如実に示していると言えるだろう


       「ええ。日中疲れるから夜は本当に良く眠れるわ。…起きていても寒いだけだし。」


       軽く笑ってはカノンに答えた
       …その顔色が若干土気色を帯びているのが、夜目にも明らかだった


       「…そうか。それなら良い。」


       暫し沈黙を保ったままの顔をじっと見詰めていたカノンが、何時もの調子でぽつりと返した
       それきり、音の無い二人の夕食が再び始まった








       翌日の昼下がり、はガルボイグラードでも一番外れに当る一角の住民達の家々を訪れていた
       任務の内容は何時もと同じで、人々の皮膚状態を延々調査し、表に記入して回る
       酷いルーティンワークに思えるかもしれないが、はその仕事の重要性を重々承知しているので別段苦は無い
       …今までやっていた研究にしても、少し内容を変えながらも基本的には毎日同じ事を積み重ねている事には違い無かったのだから
       個人のカルテに住人一人一人の病状を具に記入しながら、は背筋の辺りに少々悪寒を感じていた

       …風邪だろうか、いやちょっと疲れているだけだろう

       身体の節々に時折鈍い痛みが走る


       「大丈夫かい、あんた。何やら顔色があまり良くないようだけど。」


       調査のため訪問している家の老人がの顔を覗き込んだ


       「この国の気候に慣れない内に無理して、身体を壊す人間も多い。
        あんたもそうなんじゃないかい?」


       老人はの背を摩って、奥に向かい叫んだ


       「ばあさん、ばあさんや。」


       ややあって、奥の部屋から一人の老女が姿を現した
       先だってが調査を済ませたこの老女は、老人の糟糠の妻だった
       実りの乏しいこの地の生活のためか、その顔には深い皺が刻まれ、実際の年齢よりは一回り程度も上に見えるが、実に品のある女性だった

       …年齢の重ね方にも色々あるだろうけど、出来るものなら彼女のように品性を損ねる事無く年老いたいものだわ

       彼女を見るにつけ、はつくづくそう思うのだった

       …いや、彼女だけではない
       この土地に住まう人々は、皆そこはかとなく凛とした品性を漂わせている
       追い遣られ、窮状に甘んじ続けて来ても、最後まで希望を捨てず祈り続ける姿勢を崩さない
       それが彼等の「誇り」であり同時に「伝統」であるのかもしれない
       時の流れに目まぐるしく変化を強いられて来た自分達と比べ、彼等の心は何と強いのだろうか

       は、彼等に接するほど自分の育った国の文化的規範の脆さを感じずにはいられなかった
       …そしてそんな彼等が今、刻一刻と他者に率先して滅亡の縁に立たされていると言う皮肉この上無いこの現象に対する慟哭も
       彼等がただ安らかに生きる権利を得るために、今一番有効な方法は一体何であるのか
       を連日眠れなくしている原因が、再び心の中に充満し始めるのだった



       「さあ、これをお上がりなさいな。」


       俯くの目の前に、大きな白いマグカップが差し出された
       カップの中の茶色い液体の甘い香りがの嗅覚をくすぐる


       「ホットチョコレートよ。疲れている時には、甘くて温かいものが一番ね。
        さあ。」


       がカップを受け取って顔を上げると、そこには老女の温かな笑顔があった
       手にしたカップの液体が発する熱よりもそれは何倍も温かく感じられて、は張り詰めていた心の奥底がじん、と暖かくなってくるのだった


       「…ありがとうございます。遠慮なく頂きます。」

       「このくらいしかしてあげられなくて本当に申し訳無いのだけれど。」


       が口に含んだ液体は、奪い続けられて来た人々の優しさの味がした











       が老人の家を後にしたのは、夕刻に差し掛かった頃だった
       彼等のささやかなもてなしのおかげでの心にはほんのりと灯りが点されたかのようだったが、流石に疲労の蓄積した肉体は悲鳴を上げ始めつつあった
       徐々に重く感じられてくる身体を引き摺るようにして、は本部への道を一歩一歩踏み締めていた
       ガルボイグラードでも外れに当る老人の家から本部までは、の足で歩いて一時間近い距離が隔たっている
       近道をすれば少しは早く着くのが分かってはいるが、脇道に入った途端、以前のように何物かに襲われる可能性も高い

       それだけは、何としても避けないと

       次第に沈黙し始めた思考回路をフルに働かせながら、は街の大通りをずるずるとゆっくり進んだ
       何時もであれば難無く歩いて行ける雪道も、今日は一歩歩くに連れて重く感じられた
       まるで雪の方からの足に絡み付いて来るかの如く、徐々に歩く速度が落ち、歩幅も狭くなる
       3km程度の本部への道程が故国までの距離に思えて、は気が遠くなりそうだった
       …もしがこの時鏡を持っていてそれを覗いたなら、驚きのあまりひっくり返ってしまうかもしれない
       の目の下にはどす黒い隈がくっきりと浮かび、土気色のその顔は酷く歪んでいた
       それは、かなりの高熱に身体が侵されている兆候だった
       の横を通り過ぎて行く人達も、それを目にしたならばおそらくを病院かNGO施設に担ぎ込んでくれたかもしれない
       …街が夕闇に包まれてさえいなければ、であるが



       人通りのすっかり途絶えた夜の雪路に、は倒れ込む様にしてうずくまった
       一本の道を行っては戻る様に、意識が螺旋を描いて時折遠のいてはまた戻って来る
       何かを考えていても、ぷつり、ぷつりと細切れに刻まれ形を為すには至らない
       雪の中…しかも硬く凍った根雪の中に横たわっているのだから身体は凍えている筈なのに、頭だけ酷く熱く、その他の器官は何も感じない
       思考が正常に働いていたならば、カノンの言う通りきちんと眠っていれば良かったと後悔の臍を噛んでいたかもしれないが、
       今のにはそれすらも侭ならなかった




       「…カ、ノン…。」




       の最後の呟きは、空気を震わせるばかりで最早声にもならなかった















       日暮れから雪の降り始めた街角で、カノンは黒い街灯に背を凭れ掛けていた


       「…遅い…。」


       吐き捨てたその一言は誰の耳にも届かなかった
       勿論、辺りに誰一人として通行人がいなかったからだ
       例え聞き取れる人間が運良く居たとしても、その意味までは到底判らなかったであろう
       …それは、遠い彼の故国の言葉なのだから


       苛立ちや喜びなど、より単純で素朴な感情を感じた時、人はそれを本能的に母国語で表現することが報告されている
       …カノンのこの言葉も、その類に漏れない


       肩に降り積もる雪を邪険に払い落とし、カノンはその青い目を凝らして前方を唯じっと見ていた
       ここ30分あまり誰も通り掛かる事の無い道の向こうにたった一人の女性が現れるのを、彼はずっと待ち続けている
       以前、あの男に伴われてが此処に現れた日の事をカノンは思い出した

       まさか、があの男に接触するなどと言う事態に陥るとは思いも拠らなかった
       唯の偶然には違い無いだろうが、さりとて油断をすることは出来ない

       チッ、と短く舌打ちをして、カノンは街灯の上の大きな時計を見上げた

       …7時。いくら何でも遅すぎる
       あの時でさえもっと早い時間だったのだから、の身にまた何か起きている可能性が高い
       …それにしても、どうして俺はのためにこうもイライラしているのだろうか
       俺らしくない、全く

       カノンは大きく頭(かぶり)を振った
       長い髪の先に、ゆっくりと白い雪が滑り落ちて行く

       …ともかく、今はを見つける事が先決だ

       の行き先を尋ねるため本部の建物に入ろうとして足を踏み出したカノンの脳裏に、刹那、自分を呼ぶ微弱なの小宇宙が過ぎった




       『…カ、ノン…。』




       酷く弱弱しいその呼び掛けは、一度届いたきり、途絶えた



       「!!……畜生!」



       踵を返したカノンは恐ろしい速さで雪道を走り出した











       街の外れにほど近い一角の道路脇で半ば雪に埋もれて横たわったを見付けた時、カノンは内心激しく後悔した

       …帰りが遅いのが判っていながら、顔色が良くない事も判っていながら、どうして自分はもっと早くを探しに行かなかったのか

       眠るように横たわったの身体の上には、時間の経過を示すが如く白い新雪が降り積もっていた
       今此処でカノンに発見されなければ、翌朝には雪に埋没して誰の目にも触れられないまま数日が過ぎていたかもしれない
       その光景を思い浮かべて、カノンはぞっとした
       湿った雪をその両手で掻き分けて、カノンはを抱き起こした


       「!」


       揺すっても、は微動だにしない
       胸に耳を当てると微かに届いた鼓動に、ひとまずカノンは安堵した
       だが、が凍死寸前の危険極まりない状態を彷徨っている事には何ら違いは無い
       カノンは自分の上着を脱ぐと冷え切ったを包み、その場に抱き抱えた
       丸い水銀灯に照らされたの唇が、深い紫に反射した



       「……畜生!」



       下唇をギリギリと噛んで母国語でうめくと、カノンは二人の家へとひた走った











       小屋に辿り着いたカノンは、直ぐに暖炉とオンドルに火を入れ自分の寝室から毛布を引っ張り出すと、を包んで暖炉の側まで運んだ


       パチ…パチと音を上げて徐々に燃え始めた薪の赤い灯りに照らし出されたの顔色は、火の色とは逆に青白く蝋の様に透き通っていた
       生気の無いの冷たい頬に掌を当てたカノンの心の底に、何時もの気丈なの眼差しが交錯する

       カノンの記憶の中のは、何時もこのブルーグラードの人間の一人一人を少しでも勇気付けようと願い、
       その力となるためならば何をも厭わない姿勢を示し続けて来た

       …何をそこまで力む必要がある、己一人の力を尽くしても詮無い事もあるものを

       カノンはのその眼差しを目にする度、ずっとそう思い続けて来た
       闇雲に弱者に与することなど、馬鹿馬鹿しいことだ、と
       そして、このブルーグラードの住人のまるで殉教者の様な目が、カノンには何よりも腹立たしかった
       逆境にありながらそれに甘んじようとするなど、同じ人間として言語道断
       そんな人間は更に迫害され、滅びても道理だと
       そう思えば思うほど、草の根レベルで彼等の力になろうとするの存在に一種の苛立ちを禁じ得なかった
       を護るのは、それが主君である女神より与えられた任務であるからだ
       それ以上でも、以下でも無い
       ……だが。

       今、自分の前に何も言わず横たわるはどうだ
       昨日までの自分であったら、そら見たことかと彼女を無様と見下していたかもしれない
       しかし、雪の中に埋もれ半ば死人となりながらも自分の名をそっと囁いたを見下すことなど、今のカノンには到底不可能だった
       自分の心の中に訳の判らない感情が大きく染みを広げつつある事に、今は混乱している暇さえも無かった



       …理由など要らない、唯の命を取り留めたい
       任務だからでは無く、偽らざる自らの意思として







       部屋の空気が暖かくなって来たのを自らの身体で確認して、カノンはの毛布を広げ、服の袷にゆっくりと手を掛けた

       の纏うシャツの小さなボタンを一つ一つその大きな手で、指先で外して行く度、の白い肌がカノンの目に徐々に顕になる
       そっと触れたその肌は、カノンの掌に吸い付くほど滑らかだが、ぞっとするほど冷たく、青白く沈んでいた

       ボトムを脱がせ、残された下着も総て取り去ったの身体を、カノンは膝を突いたまま正面からしっかりと抱き締めた
       の背中に回した己の両腕に、冷たい波紋が拡がって行く
       ゆっくりと一つ頷いて、カノンは自分の衣服を一枚づつ脱ぎ始めた

       一糸纏わぬ姿になったカノンは、毛布を敷いた床に横たわるの上にゆっくりと覆い被さった
       パチパチと、暖炉から熾(おき)の爆ぜる音だけがカノンの耳を掠める
       いまだ青白いの顔を見詰め、カノンは自らの肉体をの身体に重ねた
       ぴったりと密着させたカノンの広く厚い胸に、の胸の柔らかな感触が漣打つ
       そして、とカノン、二人の下肢の重なり合う感覚がカノンの脳の奥に甘い痺れをもたらし、思考回路に霞を掛けた

       その切れ長い目を細め長く息を吐いた後、大きく深呼吸を一つしてカノンはの背に腕を回し、その身体を抱き締めた
       そして、徐々に己の小宇宙を高め始めた
       金色に彩られたオーラが立ち上り、寸分の隙も無く重なり合った二人の身体の周囲を包み込む
       カノンは、そのままゆっくりとその縹深き瞳を閉じた








       薪の爆ぜる音に、はうっすらと瞳を開いた
       視界の向こう側にぼんやりと映る茶色の壁には見覚えがあった

       …ああ、家のダイニングだわ

       その瞬間、は自分の身体がえも言われぬ温もりに満たされている事に気付いた

       何だろう、この温かさは…
       この極寒の北の大地にようやく春の息吹が訪れたのだろうか
       身体の芯から心地よい温もりが湧き上がって来る

       再び漂い始めた意識の底で、は自分が誰かの大きな腕の中に包まれている感触を僅かに感じた








       次に目を開けた時、は自分の床(とこ)に横たわっていた

       視界に入った長い足を上に辿って行くと、椅子に腰掛けたカノンと目が合った


       「カノン…?…私?」

       「…起きるな。寝ていろ。」


       起き上がろうとするの肩を両の手でそっと制して、カノンは椅子から立ち上がった
       僅かの時間であったが自分の肩に伝った手の熱に、は夢の中の温もりと同じものを感じ取った


       「…無理はするな。」


       に背を向けたままカノンは一言ぽつりと言い放ち、の寝室から去った



       「ありがとう、カノン。」



       扉の向こうに立つその背中に、は短く呟いた

       の意識は、再び深い眠りの淵へと徐々に落ちていった
       ドアの向こうのカノンが安堵の溜息を落とすのを何故か感じながら








       ダイニングに戻ったカノンは、ソファにどっかりと腰を下ろした


       「…気が付いたのか、彼女。」

       「…ああ、まあな。」


       テーブルに着いていた男が、組んだ手を顎に当てたままカノンを一瞥した
       どうやら随分前に此処へやって来たのだろう、男の目の前のティーカップの中身は当の昔に冷え切っていた


       「そうか。それは良かった。」


       男は肩に掛かった長い髪の毛を後ろへ振り払った
       さらさらと背中へ落ちて行くその髪は、上等の絹糸に吸わせたワインを彷彿とさせる深い紅色を呈している


       「…それにしても。」


       紅い髪の男は、再びカノンをちらりと横目で見遣った

       ソファの背凭れに深く腰を落とし、額から頬に掛けて掌で覆い隠したカノンの横顔の、なんと憔悴し切ったことか
       互いの付き合いがさほど長くないとは言え、男がカノンのこの様な表情を目にするのは全くもって初めての事だった


       「大変だったろう、あなたも。」


       男が僅かに眉尻を下げて呟くと、カノンは途端にがば、と背を起こして体勢を立て直した


       「…いや、造作も無い事だ。…と言いたい所だが、流石に今回は少々堪えたな。」

       「そうだろう。唯でさえこの寒さには二人とも馴染みが無いのだから、凍傷の治療と看病の苦労は私の想像にも余りある。」

       「ともかく、礼を言う、カミュ。お前が用意してくれたのがこの家で助かった。」

       「…いや、此処は昔私が短い間使っただけだったが、それでも役に立ったのならそれで充分だ。
        礼には及ばない。…それに。」


       カミュはティーカップの腹を長い指で短く弾いた
       冷え切った褐色の液体の表面が俄に漣立つ


       「彼女を死の淵から本当に引き上げたのは、この家の成せる業ではないだろうから。」


       微かに揶揄の表情を湛えて、カミュはカノンを横目でちらりと見た
       カノンはその僅かな所作がカミュ一流のからかいの仕種である事を無論正しく理解していた
       自分の心の裏を覗き込まれている様で多少の不快感は有ったが、カノンはこの知己のこうしたさりげない所作が決して嫌いではなかった


       「……フ。」


       カノンは腕を組み直して僅かに口元を歪めた
       その苦笑に秘められた彼の今現在の心境の全貌は、彼自身にも未だ把握しきれるほど明瞭なものとは言い難かった
       …少なくとも、カノン本人に取っては
       …否、それは当の本人であるからこそ正しく自覚できないと言った方が、この場合適切だろう



       「ところで。」


       僅かにその怜悧な表情を崩していたカミュが、居住まいを正した
       身体の動きに合わせて、彼の真紅の後ろ髪が椅子の背凭れを滑る
       カノンもカミュに釣られるかのようにソファに掛けた足を組み直した


       「例の件については、どうなっている。」


       カミュの声のトーンが低く落ちる
       彼の表情からは最早諧謔の色は完全に払拭されていた
       それとは対照的に、カノンの表情は若干苦渋の気配を滲ませている


       「…今のところは、特には、な。」


       言いながらも、カノンは自らの口調が益々重々しい響きを含みつつある事を悟り、
       同時に自分の今の心境は思ったより複雑なのかもしれないと今更自覚した。


       「何か、あったのか?」


       カノンの表情から何かを察し、カミュは少し身を乗り出した


       「が。」

       「が、…彼女が一体どうした。」

       「あいつと接触した。」

       「…何!?」


       カノンの一言に、カミュは僅かに目を見張った
       元来表情らしい表情を殆ど顕にしない男だけに、そのほんの僅かな仕種が示す彼の心の裏の動揺は決して小さなものではなかった


       「それは本当なのか?」

       「ああ。どうやらあいつに危急の所を救われたらしい。」


       カミュが眉根を寄せる


       「それは、故意にか?」

       「いや、どうやら唯の偶然の様だ。は奴の名も知らん。
        だが、だからと言って奴が何も企んでいない証にはならん。」

       「…しかし、それは少々厄介な事になったな。」


       カミュはテーブルの上に置いた両の手を解き、右頬に掌を押し当てた


       「…奴は油断できん。奴の腹の内が明らかになるまでは手出しはしないつもりだ。
        …だが。」

       「…だが?」

       「これ以上奴がに近付く事が有れば、その時は俺も容赦はしない。」

       「しかし、それは…。」

       「例えそれが女神の御意志に反しても、だ。」


       カノンは半ば彼の癖の如く、口の片方を僅かに上げて不敵に笑った
       しかし、その眼光の鋭さは決して彼が冗談や揶揄でそれを口にしているのでは無い事を何よりも如実に示していた


       「…ともかく、女神には今の所不審な動きは見られないとだけ言上願おうか。」

       「…ああ。あなたにも何か考えが有っての事だろうから。」


       ガタン
       を起こす事の無い様静かに椅子を引き、カミュはゆっくりと立ち上がった


       「…よろしく頼む。」


       ソファに座ったまま、カノンはカミュの背に声を掛けた
       見送るなどと言う気の利いた行為をこの男が取る筈が無いのは、カミュも随分前から承知の上だ
       別段気に掛ける事でも無い

       ドアのノブに右手を掛けて、カミュはその肩越しに半分だけカノンを振り返った





       「…自分の正直な気持ちと言うのは存外気が付かなかったり、気付いたとしても認めたくないものなのかもしれない。その時には。」





       カノンがその言葉に半分腰を浮かせた所で、カミュはそのまま扉の向こうに消えた
       ドアが閉まるバタンと言う音と共に、カノンはソファにどさりとその長身を落とした
       顔を上向けたまま、組んだ両手を瞼の上に落として、カノンはフッと短く息を吐いた




       カノンの耳に、熾の音に混じって残酷なほど安らかなの寝息が木霊した
       そしてその一つ一つがカノンの心に爪を立て、優しく掻き毟った







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